「その時の自分の顔は」

7,8歳頃の記憶です。夜汽車で向かい合わせになった30代半ばの婦人が、次から次へとキャラメルをクチャクチャと噛む顔をじっと見つめていました(子供特有の凝視です)。澄ましていれば整った細面の顔がいびつに歪み、奇妙で不思議で面白かったのです。いや、はっきり言えば醜いものでした。クチャクチャという音も不快でした(ところが、私の目が物欲しそうに見えたのか、向かい隣のおじさんがあられをくれました。今でも「誤解だ」と叫びたいところです)。

 学生の頃、たまに立ち寄ったラーメン屋は壁が鏡張りでした。その鏡と向かい合う席に座ると、ラーメンを食う自分の顔を間近に見ることになりました。初めて見る顔の動きでした。子供の時に見たあの婦人を思い出しました。やはり自分もいびつに歪んでいました。醜いと思いました。

その時以来、私は、人前では上品な食べ方、噛み方をしようと決心しました。いや、したはずなのですが、食べる時になると、忘れてがつがつ食ってしまいます。鏡を見ないので忘れるのです。

食べている時の顔なら、まだいいかもしれません。自分の怒り狂った顔、不機嫌な顔。人を侮る時の顔、嘘や悪口を言う時の顔などは、どんなふうになっているのでしょうか。そんな時の顔を鏡で確かめてみたことはないでしょう。でも、見たら、恥ずかしくなるにちがいありません。しかし、人には見せているのです。そう考えると怖くなります。だから、上品な慎みの顔を保とうと思います。しかし、心は必ず顔に表れます。平安な顔で嘘を言うことはできません。

私たちには、キリストという鏡があります。毎朝、その鏡に心を映し出し、整えてから出かけることにしましょう。そして、たびたびその鏡に向かいましょう。