「新しい明るい鏡」100704

「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます」(ヤコブ1・23〜25)。

私たちの教会には、小さな鏡があるだけで、きちんとした鏡がありません。しかも照明が不十分なのです。以前から、その不便さは聞いていました。いつか新会堂ができたら、女性の化粧室には明るい照明と大き目の鏡を設置したいと思います。

しかし、明るい鏡であればいいというわけではないようです。ある教会では、あまりにも立派で明る過ぎる鏡を設置したために、婦人たちから「はっきり写りすぎて困る」という苦情が出たそうです。誰でも、ありのままの顔をはっきり見るのがいやなのです。鏡でも写真でも、そこにありのまま以上の自分が写っていなければいやなのです。こんなの自分じゃないと思っている写真を、「あなたらしく写っているわね」などと言われるショックを受けたりします。
心の顔についてもそうだと思います。人は、神の言葉というくもりなき鏡に映し出される自分の「生まれつき顔」をじっと見つめていたくはありません。「生まれつきの顔」というのは、どんな細工をしても隠せない顔、私らしい「ありのままの顔」のことです。

ではどうすればいいのか。ただ、「自由の律法」、つまり十字架の恵みを一心に見つめましょう。見つめて離れないようにしましょう。そうすれば、神の言葉のままに生きたいと願うようになります。「事を実行する人になります」。神の言葉の前に立つことが楽しみになります。なぜか。神の言葉が、美しい自分を映し出すようになるからです。

やはり、新しい会堂には、新しい明るい鏡を設置したいと思います。