捨てる その2

2.主イエスは「自分を捨てた者」を見捨てられない
 主イエスが「自分を捨てて、わたしに従え」と命じられたのです。それゆえ、自分を捨てて従った者を、主がお見捨てになるはずはありません。主はこう言われました。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハ 6・37)。

また、こうも約束されています。
「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(マタ 10・39)。
主のために「自分のいのちを失った」とは、主のために進んで自分を捨てた結果です。

3.イエスがまず御自分を捨てられた
主イエスは、主のために「自分を捨てた者」を喜ばれます。まず主が、私たちのためにご自分を捨てられたからです。

1)イエスは神の子ですが、神としてのあり方を捨てて、人となられました。
 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリ 2・6、7)。
 私たちは自分のライフスタイルさえなかなか捨てられないのに、主イエスは「神としてのあり方」さえお捨てになったのです。それが愛です。「これを捨てたら自分が自分でなくなる」などと言って、「自分の生き方・やり方」に固執することが恥ずかしくなります。イエスを愛するとは、一時的でも、イエスのために自分のやり方やスタイルさえ捨てることです。

2)主イエスは私たちに永遠のいのちを与えるため、ご自分のいのちを捨てられました。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハ 10・11、15)。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ 15・13)。
イエスは「神としてのあり方」だけではなく、ご自分の「いのち」さえも捨てられました。友、敵、罪人のためにいのちを捨てること以上の愛はありません。そのとてつもなく大きな愛を受けとりましょう。それを全身で受けとめたとき、つまらぬ誇りや自己執着心を捨てられるようになります。まずキリストの愛に圧倒されなければ、自分を捨てることはできません。