張作霖爆殺事件、満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍部が暴走し、太平洋戦争へと突き進んでいた1933(昭和8)年、大阪で「ゴーストップ事件」と呼ばれる出来事が世を騒がせました。
交通信号機が設置されて間もない大阪天神橋で、陸軍第八連隊の一等兵が赤信号を平然と無視しました。それを巡査が「待てー」と止めたところ、「何を止めるか、俺は公務だ」と殴り合いになりました。その喧嘩を聞いて、第八連隊は「オマワリのごときが・・」といきり立ちます。大阪警察部も「信号無視は陸軍だろうが許せない」と突っぱねます。陸軍の参謀長は、「我々は陛下の軍人である。知事も署長も謝りに来なければ絶対に許さない」という態度をとりましたが、粟屋仙吉警察部長は厳正なるクリスチャンで、軍の横暴に屈しませんでした。陸軍はさらに硬化し、「自分たちは国民の軍隊ではない。皇軍の名誉のために断々乎として戦い、最悪の場合はただ玉砕するのみ」とまで言って脅します。それでも粟屋部長は警察としての立場を貫徹しました。
そして、事はついに中央にまで飛び火します。陸軍大臣荒木大将が「陸軍の名誉にかけて大阪府警察を謝らせる」と立ち上がり、警察を管下に置く内務省と大喧嘩を始めたのです。双方一歩も引かず、どうにもならなくなりました。
4か月たって、結局、天皇の厳重注意を受けた荒木陸相が軟化し、当事者の一等兵と巡査を無理やり握手させ、その写真を新聞に載せて一件落着させました。大阪は陸軍の横暴に対し最後まで正しい道を貫いたとされ、陸軍は第八連隊の隊長をクビにして、非を認めた形になりました。しかし、これが軍への最後の抵抗になりました。このあとは、軍が戦争へと国民を駆り立てて行きます。
クリスチャンの粟屋部長は、それから10年後の1943年8月広島市長になり、その2年後、被爆して亡くなりました。(半藤一利『昭和史(上)』参照)