「あなたがたの言葉が、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」(コロ4・6)。
美しく、気持ちの良い日本語を話したいと思いませんか。
日本人は敬語を大事にする民族です。世界でも敬語を持つ言語は少ないのではないかと思います。しかも尊敬語と謙譲語の両方を持っている言語となると、なおさら希でしょう。日本語の特質である敬語を生かさない手はありません。敬体(ですます体)、そして尊敬語と謙譲語をうまく使いこなすだけでも、品性が整えられていきます。
尊敬語とは、相手を自分よりも高くして表現する言葉です。たとえば、ご覧になる、召し上がる、いらっしゃる、おっしゃる、などです。また、尊敬の助動詞「れる、られる」でも表されます。一方、謙譲語とは、自分を相手よりも低くして表現する言葉です。たとえば、拝見する、いただく、参る、申すなどです。
面倒くさい、煩わしいと言わないでください。形式的だと片付けないでください。相手と自分の距離を測り、相手の気持ちを配慮して、敬語が使い分けられるようにすることは、日本人が風土と文化の中で培ってきた思いやりと謙譲の精神なのです。
心が謙遜であれば、相手に合わせて、敬体や、尊敬語や謙譲語が口から出てきます。敬語を使おうとすれば、心もへりくだってきます。良い心は良い言葉を慕います。そして、良い言葉が良い心を訓練し育てます。「ワシは」で始めれば「食うぞ」とぞんざいに終わります。「わたくしは」で始めれば「いただきます」で終わります。決して「食う」とは言いません。謙譲語で始まれば、謙遜な言葉で結ばれるのです。
もちろん、心と言葉が一致していなければなりません。確かに、心を清めず、言葉だけを清めても、口先だけの「巧言令色」になってしまいます。でも、私たちは、すでに心に聖霊をいただいています。聖い霊からは聖い言葉が生まれます。そのことを意識していれば、研ぎ澄まされ「塩味の利いた」言葉が生み出されてきます。