私たちが罪人であるかぎり、人に傷を与え、受けることは避けえません。人生という競技場で、傷つけられたことのない人はいないし、傷つけたことのない人はいません。傷つけ、傷つかないように生きるのは不可能です。何もしなくても、存在しているだけで傷つけることも傷つくこともあります。
この傷を放置すれば、心を歪めてしまいます。人間関係をいびつにし、人生を台無しにしかねません。人間の幸不幸はこの傷の処置次第とさえいえそうです。
聖書が教える心の傷の処方は何か。いうまでもなく「赦す」ことです。 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」(コロサイ3・13a)。永遠の滅びに至る罪を主に赦していただいたように、人の小さな罪を赦しなさい、これに尽きます。「赦す」ことが心の解放です。人生の軌道修正です。しかし、そうとわかっていても「赦す」ことは容易ではありません。私たちは赦せないで苦しみ、赦せない自分が情けなくて苦しみ、相手の無頓着な態度にかさぶたをめくられて苦しみ、人から無神経に諭されて苦しみます。逆に、傷つけた方も赦してもらえずに苦しみ、誤解で苦しみ、「傷つけた」と責められて傷つくこともあります。
それでも聖書は続けて語ります。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(同b)。「主があなたを赦された」という事実は、罪人同士の「傷つけた、傷つけられた」「赦さない、赦せない」という葛藤を跡形なく吹き飛ばしてしまうほど圧倒的なのです。また、主はこうも宣言されています。「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」(エレミヤ31・34 )。全知なる主が、忘れたことにすると言われるのです。「忘れる」とは、記憶が全くなくなることではありません。体に傷跡は残っていても、運動には何の障害もなくなるように、心に傷跡は残っても、何の影響もなくなることです。
そんなことが可能なのか。可能です。それが十字架の恵みです。聖霊の癒しのわざです。あなたにも体験できます。