貪欲が崩壊の原因

「クリスチャンもクリスチャンでない人も、物質的繁栄という『目的』に取り憑かれて、社会のさまざまなの圧力、手段、勢力(たとえば、歯止めの効かない経済成長)が神々として君臨することを容認してしまった」(ボブ・ハウツワールド『現代の偶像』)。

現代社会は自転車と同じで、一生懸命前に進まないと倒れてしまうかのようです。どの分野でも、次々と新しく、便利で贅沢で見映えのいいものを創り出していかなければ、競争に勝てないし、生き残れないし、国も繁栄を続けられない仕組みになっています。しかし、行き過ぎた貪欲がかえって経済不況をもたらし、貧富の格差を拡大させたのではありませんか。物や食糧やお金の総量が減ったわけではありません。どこかにあるわけです。なのに、なぜこんな社会になるのと、子どものように疑ってみるべきだと思います。

もう、コンピュータも携帯電話やスマホも持たず、テレビは見ず、自動車も運転しないという生活をすることは不可能でしょう。でも、これ以上便利なものや、新型新機種などは求めない、という生活は無理なのでしょうか。そんなことをしたら、経済全体がしぼんで大不況になるという仕組み自体を変えられないのでしょうか。

人々は、どうせこの地上を去るのに、終わりなく新しいものを求め続けて、どうなりたいのでしょうか。幸せになりたいなら、そんな生き方をしなくても幸せになれるのではありませんか。さらに便利で快適でないと、人間はそんなに不幸なのでしょうか。

江戸時代の国学者本居宣長が、「未来の人は、昔の人たちは不便で貧しくて辛かっただろうなと思うかもしれないが、我々は今の生活レベルに馴染んでけっこう満足している」というようなことを書いています(うろ覚えですが)。

主イエスも警告されています。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(ルカ 12・15)