祈りましょう④

祈ろうとしない態度は、高慢です。自分の無力、欠乏を知らないか、あるいは認めていないからです。主に頼らずともなんとかなる、自分の力や人の力だけでなんとかできるという意思表明です。祈りは自分の無力さを認めた者の行為です。ヘリくだりがなければ祈らないということです(心の病は別の話です)。

しかし、祈りは卑屈な態度をとることでもありません。自分の弱さや欠乏を、神の前で今さらのように恥じるのはおかしなことです。自分の弱さや足りなさをありのまま認めることができるから、神に近づけるのです。

アブラハムは、ソドムの救いのためにとりなすとき、こう言って神に近づいています(創世記18・27)。

「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」。

「ちりや灰」であることを恥じながら、主の前に出ているわけではありません。ただ、神の前には「ちりや灰」にすぎない人間であることを、事実として認めているのです。アブラハムはそう言った後、主に向かって実に大胆な嘆願を繰り返していきます。もし彼が卑屈になっているのであれば、あんなに大胆には嘆願できなかったことでしょう。祈りの大胆さは、高慢から出てくるのではなく、ましてや卑屈でもなく、へりくだりから生まれるのです。

祈りの大胆さは、信仰の大きさの表れとも言えるでしょう。しかし、それ以上に、へりくだりの表れだと思います。人間のへりくだりが、神の愛と義と全能のご性質に共鳴して、神を動かすことになるのです。自分の足りなさを認めるなら、もっと祈り、へりくだるなら、祈りはもっと大胆になることでしょう。