「『おはようさん』『おはようさん』。すれちがうたびに、みんな声をかけあってゆく。若い人もいる。年よりもいる。子どももいる。親子連れもいれば、中年夫婦もいる。みんなふだん着の、いま起きぬけてきたという気軽なかっこうで。朝5~6時の裏山は行楽地のように賑わっている」。
これは、1963年の『暮らしの手帳』にある「日本紀行・神戸」の一節です。今もそうなんだろうかと、六甲山麓近くに住む神戸市民の牧師に聞いてみると、昔の賑わいはないものの、やはり散歩する人は多く、挨拶の声を掛け合っているとのことでした。
出会いの時の挨拶はとても大切です。出会って、顔を見て、挨拶しないのは、普通は「無視」「反感」「関わりたくない」の意思表示ととられます(挨拶しても、聞こえない時もありますから、寛容に)。
都会生活をすると、なぜかそばにいる見知らぬ人の存在を無視するようになっていきます。近隣の人やエレベーターで一緒になった人とも、挨拶をしないのが当然になります。そばに人がいても、いないのと同じなのです。電車内で、平気で携帯電話で話す人、食事をする人、化粧する人、大きな音をヘッドフォンから漏らす人・・というのは、周りの乗客を人ではなく、物体だとでも思っているのかもしれません。
しかし、山(自然)はそんな都会人をいっときながらも普通の優しい人に戻します。やはり都会は不自然なんですね。9月、商店街のビルに教会堂を移したら、教会は「自然」の役割を果たしたいと思います。
復活の朝、主イエスは、最初に会ったマグダラのマリヤに、「おはよう」と爽やかな挨拶をなさいました(マタイ28・9、新改訳、新共同訳)。ギリシャ語は、「喜び」からきている言葉です。ユダヤ聖書では「シャローム(平安あれ)」と訳されています。復活の主を信じる私たちも、死からよみがえられた主の爽やかさを挨拶の言葉に乗せて、町の人々に届けましょう。