教改革者マルチン・ルターは「ヤコブの手紙」を価値のない「藁の書」として、聖書(正典)から外そうとしました。ルターは行いによる罪の赦しを求め続けた末、パウロの「信仰義認」の教えを発見して目が開かれ、長年の苦悩から解放された人です。「ヤコブの手紙」はその「信仰義認」の教えを批判し、行いを強調しているとしか思えなかったのです。でも、ヤコブは、信仰と行いは一つであり両者は切り離せないことを説いたのであって、「信仰義認」を否定したのではありませんでした。ヤコブ書は決して「藁の書」ではありません。
ユダヤ人は実践を重視する民族です。哲学思想も実践と結びつけ、科学理論も実用化しようとします。現実化しなければ無意味だと考えます。私たちは、ユダヤ教徒は律法主義者だと考えますが、ユダヤ教のラビからすれば、キリスト教徒は信仰と行いを切り離して信仰だけを尊ぶ人たち、つまり実践があまり伴わない人たちに見えるのだそうです。その意味でも、ヤコブ書はむしろ、プロテスタント教会の私たちが学ぶべき大切な書であり、実践すべき教えです。
さて、「ヤコブの手紙」はこう始まります(1章1節)。
「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります」(ユダヤ聖書訳では、「神とメシヤなる主イェシュアの奴隷ヤコブからディアスポラ(離散)の十二部族へ、シャローム!」)。
主イエスの兄弟とされるヤコブ(もちろんユダヤ人)が、「イエスをメシヤと信じるユダヤ人」に宛てて書いています。今日でいえば、メシアニック・ジューと呼ばれる人たちが対象です。初代教会が消えて以来、キリスト教会は新約聖書からユダヤ的背景を忘れて(あるいは排除して)読んできました。しかし、そのために大切なことを失ってしまいました。それゆえ、ヤコブ書によって「ユダヤ人のキリスト信仰」を学びたいと思うのです。