東京ドームで復活祭を

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと・・・です」(Ⅰコリント15・3~5)。

私たちの願いは、いつの日か東京ドームで復活祭を祝うことです。すべての目が十字架のキリストを見上げ、復活のキリストを見つめて、喜びの声を上げることです。日本の国ではクリスマスというお祭りシーズンはあっても、受難週や復活祭はほとんど知られていません。教会でさえも、力の入れ方においては、復活祭よりもクリスマスのほうが上です。しかし、パウロが語っているように、最も大切なこととして伝えられたのは、キリストの十字架と復活であって、生誕ではありません。福音書もマルコとヨハネには生誕の記事はなく、マタイとルカも生誕よりも十字架と復活に圧倒的なスペースを割いています。ですから、東京ドームで復活祭を祝い、日本にも復活祭を定着させる一歩としたいのです(東京ドームというのはシンボルであって、こだわる必要はありません)。

しかし、人が前もって作った組織が、全国の教会に呼びかけ、動員をお願いして開催するような復活祭大会ではありません。復活祭が終われば、何事もなかったかのように波がさっと引いてしまうような運動(ムーブメント)ではありません。人の名ではなく、ただ復活のキリストの御名だけがあがめられる集まりです。人の名が前面に出れば、プロテスタント5百年の分裂の歴史を繰り返すだけです。願うのは、まさに聖霊が全国個々の教会を動かされ、各所で起こった小さなリバイバルの波が緩やかに重なって大きなうねりとなり、全国から主の復活を一緒に祝おうとして集まってくるような「復活祭」です。

私たちの教会も、その一つの波が起こる教会になりたいと願います。その願いを心に秘めて今日の復活祭を祝い、また祈り続けましょう。