「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」。
ヤコブには、少しも疑わず信じて願えば与えられるという信仰があります。イエスは、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11・24)と言われました。ヤコブはこれをそのまま受け入れているのです。
では、「少しも疑わずに信じる」とは、どうすることしょうか。「疑わない!疑わない!疑わない!信じる!信じる!信じる!」と何度も唱えて、自分に言い聞かせることなのでしょうか。じーっと何十分、何時間と主の前に黙想して、「心にもはや一点の疑いもなし」という心理的状態を作り出すことなのでしょうか。それが信仰なのでしょうか。いいえ、それは洗脳です。信仰とは心理的操作ではないのです。
信仰とは、聖霊によって与えられるものです。では、どうすれば聖霊によって信仰をいただけるのか。「聖霊様、私に揺るぎない信仰を与えてください」と一心に祈ることです。そのときすでに、疑わずに信じるという信仰が始まっているのです。「それじゃあ、疑いのない信仰とは、疑わずに信じて祈ることだと言っているのと同じじゃないか」。そうなのです。疑いのない信仰とは、信じることからしか始まらないのです。それが聖霊の働きなのです。「それは変だ」と、そこで理屈を言っては、信仰は始まらないのです。まさに子供のように信じることです。
ヤコブの信仰は単純明快です。理屈だけの信仰は、患難の時代には役に立ちません。大地のように動かない信仰をもっている人が、どんな事態にも堅く立ち続けられるのです。