ヤコブの手紙⑦試練と忍耐

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」

中学、高校、宅郎時代の私の勉強部屋は、天井のないトタン屋根の下でした。床は腐って穴が開きそうな部分があり、壁は土で柱とのつなぎ目から外が見えていました。エアコンはおろか、窓には網戸もありませんでした。夏はじっとしていても汗が噴出すほどの暑さ。冬は、朝、インク壷がうっすら凍ることもあるほどの寒さでした。しかし、耐えているという意識はありませんでした。あの頃は、私の人生で最も禁欲的で勤勉な時であったと思います。漫画もゲームも全く無縁で、高校時代はテレビもほとんど見なかったと思います。田舎のことですから、たいていの人が似たり寄ったりの生活をしていました。

それはそれなりに、いい時代でした。日本は高度経済成長期で、忍耐と勤勉によって、それなりに自分の世界が開けていく機会や場が多かったからです。

忍耐せざるを得ないという時代があります。クリスチャンにとって、初代教会の時代は特にそうでした。迫害が激しくなっていく試練のときで、ヤコブも殉教死したと伝えられています。「いのちの冠を受ける」ために耐え抜くということが、強調された時代でした。実際に、迫害を耐え抜いて主の栄光を見ていた時代であり、教会史において最も輝いた時代ではないかと思います。

パウロも、「忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」(エペソ6・18)と命じています。そこまで忍耐したら、パウロが体験していたような「大いなる恵みの世界」がきっと開かれると思います。それゆえ、ヤコブは「試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(2)といったのです。

私たちは迫害のない生温い時代に生きています。忍耐と誠実の限りを尽くす外的要因のない時代です。試練がないのが試練だとさえいわれます。ならば繰り返し繰り返し、内的熱情を新たに燃やしていくほかありません。試練はそこから生じます。