関考和をごぞんじですか。

関孝和(1642~1708)は、17世紀の日本が生んだ世界に誇る数学者です。天才中の天才です。彼以前の日本の算数は小学低学年レベルでしたが、彼によって大学レベルはおろか、世界のトップレベルにまで押し上げられました。なにしろ、世界でも最も早く行列式やベルヌーイ数(今日の数学に不可欠なもの)を導入しています。微積分、円周率の16桁までの算出、代数の計算法など、西洋とは独立した業績を上げてもいます。関の数学は弟子たちによって継承され、天文学、測量術、三角関数などが飛躍的に発展しました。江戸時代に正確な日本地図が作られたのも、関の数学が土台になってのことです。17世紀に関孝和がいたからこそ、19世紀の明治維新がありえたのであり、欧米列強のもたらした科学や文物を素早く理解、摂取できたのも、また列強に植民地化されず、独立国家としてスタートし、科学技術立国できたのも、関あればこそなのだそうです(NHK歴史番組から)。

それにしても、なぜそんな天才が、極東の孤立した島国に、しかも義務教育さえなかった江戸時代に登場したのでしょうか。実は、1672年、吉田光由が出版した「塵劫記」という算術の本がベストセラーになって、全国的に数学ブームが起こり、数学塾には人々が男女、年齢、身分関係なく集まって、難問を解きあっていたという背景があります。ちょっと信じがたい話ですが、勘定方の役人だった関はそんな中で独自の数学理論を打ち立てていったのです。とはいえ、世界の最先端に達することができたのはなぜなのでしょうか。

一つには、「もうこの程度でいい」とは考えなかったからでしょう。関には世界レベルを目指そうという意識はありませんでしたが、どんどん先へと追究していくうち、そこまで行ってしまっていたというところです。能力の有無より、「この程度でいい」とは考えないで勤勉に進んでいく人が、気づかぬうちに偉業を成し遂げるのでしょう。「私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます」(ピリピ3・13)というパウロがそうでした。