N兄葬儀

先週火曜日(25日)、N姉のご主人Yさんの葬儀を行いました。Yさんは、18年におよぶ脳梗塞のリハビリ生活の後、昨年12月23日洗礼を受けられ、この6月22日召天されました。N姉の長い間の看病と祈り、またGCCの教会員の祈りと訪問伝道に、主が答えてくださいました。祈りの勝利だと思います。主に、皆さんの祈りに感謝します。

私は、公私ともに、多くの死に立会い、死に顔を見(時には見られないことありました)、葬儀を行ってきました。クリスチャンの方の葬儀は、悲しみの中にあっても、正面から希望と慰めを語ることができるので、司式するにも平安があります。教会員の復活信仰と祈りの加勢を受け、大胆に復活の希望を語ることができます。今回もそうでした。

ところで、皆さんもそうではないかと思いますが、私はご遺体を見るたびに、そこに横たわっている自分を想像します。参列者に顔をまじまじと見られながら、何一つ語れないのは非常に残念です。肉体の苦痛や罪の煩悶から解放されて、主とともにいる感動と平安と喜びを伝えられないのは何とも歯がゆいことです。泣く人がいたら、なおさらではありませんか。「私は生きている。復活の時が来たら再会できる」と励ましたいでしょうし、クリスチャンではない家族や友人には、「再会できるように、キリストを信じなさい」と叫びたいところです。

キリストは十字架を背負って歩きながら、嘆き悲しむ女たちに言われました。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい」(ルカ23・28)。私たちは病床ででも、生きているうちに言い残したいですね。

また、自分の愛する者が横たわっていることを想像します。長年連れ添った配偶者や家族の死に顔をどんな思いで見ることになるのだろうか、と。想像できる悲しみで、ご遺族の気持ちに寄り添いたいと思います。そして、生きているうちに、周囲の人々に優しくしてあげましょう。