「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」
今日の社会は、幼児から老人まで、人を誘惑するものに満ちています。テレビもインターネットもCMも、誘惑してやろうと一所懸命です。街角には罠が張られ、電車内では「媚(コビ)」が売られています。しかし、人が誘惑されてしまうとすれば、その原因は外にではなく、内にあります。
私は学生時代の一時期、心の虚無を欺くためパチンコにはまりました。無機質な金属とプラスチックとガラスの世界の機械的な運動は虚無にぴったりでした。街を歩けばパチンコ屋が気になり、足が引き寄せられました。しかし、主とともに歩み始めてからは、側を通っても心の視覚からは遠い世界になりました。全く興味を感じない自分が不思議でした。
誘惑されるのは、肉的な欲望が原因です。自分で勝手に誘惑されているのです。まさに、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」。
所有欲、官能的欲望、自己顕示欲・・・すべての肉欲は、心の空洞が原因です。癒しがたい飢えと渇きを生み出します。高慢や見栄も、その空洞から来ています。その空洞をモノや快楽、人の注目を引くことで満たそうとするのです。空腹をチョコレートで、喉の渇きを甘い炭酸飲料で癒そうとしても逆効果になるように、心の空洞をガラクタで満たしても、欲望はエスカレートするだけです。
もしそんな傾向が残っているとしたら、心をガラクタで満たそうとすることを一切止め、聖霊に満たされることを求めるべきです。それ以外に癒しの方法はないと悟りましょう。喉の渇きを癒すのは純粋な水であるように、心の渇きは「いのちの水」(聖霊)でしかないのです。