NHK番組「クローズアップ現代」によると、土下座が前世紀末ごろから、社会に氾濫し始めたそうです。不祥事を起こした会社の謝罪記者会見で、責任者たちがそろって土下座して「禊ミソギ」をする光景は、テレビで何度も見ました。人気絶大だったドラマ番組「半沢直樹」の最終回の土下座シーンでは40%を越える視聴率だったそうです(実は私も、チャンネルサーフィンしていて、たまたまその場面だけは見てしまいました)。
些細なことで怒り、客が店員を、乗客が駅員を、上司が部下を土下座させ、中にはそれを写真に撮り、ネット投稿する者もいるそうです。ストレスでぎすぎすした社会ですが、それはこういう現象としても表われているようです(土下座の強要は犯罪です。すでに逮捕者も出ています)。公開中の映画『謝罪の王様』は、そんな土下座社会を風刺しているそうです。
人を土下座させても、空しさが残るだけです。それで優越感やスッキリ感が残るとしたら、心がどこか歪んでいるのではないかと思います。土下座を強要しても、相手は本心から謝罪してはいませんし、屈辱感、痛み、逆恨みだけを残します。また、自分に土下座させるのは、自分を神とするようなものです。私たちは、人から土下座されたら、むしろ困惑するのではないでしょうか。ペテロも御使いでさえもそうでした。「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。するとペテロは彼を起こして、『お立ちなさい。私もひとりの人間です』」と言った(使徒10:25、26、黙示22:8、9)。
「頭を地に着ける」という「かたち」は、自分が主の前にひれ伏すためだけにとっておきましょう。主の前にひれ伏すのは、畏れと感謝と喜びを伴う崇高な礼拝の「かたち」です。土下座は「かたち」は同じでも、屈辱です。この「かたち」は、絶対者なる神のためだけにとるべき、最も崇高な礼拝の姿です。ですから、それ以外のためには使わないようにすべきだと思います。でなければ、主にひれ伏すことが軽くなってしまうからです。