ヤコブの手紙⑪ 神の義

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません」。

まず、聞くことから始めましょう。相手にわからせようと一方的に語れば、争いが生じます。怒りでねじ伏せても、神の義を実現したことにはなりません。ましてや、神の愛からはほど遠いものです。まず相手に話させることです。神の義も、そして愛も聞くことから始まります。

しかし、聞いてもらっても、自分は聞こうとしない人がいます。自分の理屈に凝り固まっているからでしょう。自分の考えだけが正しい思い込んでいるときは、語ることしかしないのです。反論されれば怒ります。その場合は、神の裁きにお任せして、黙るしかありません(妻がたびたび私に対してとった態度です)。

あるユダヤ人が諧謔的にこんなことを言っています。「キリスト教徒は、ユダヤ教(旧約聖書)の神は、裁きと怒りの神だと言い、キリスト教(新約聖書)の神は愛と赦しの神だと言う。だから、キリスト教徒は愛と赦しは神に任せ、自分たちは人を裁き、怒る。しかし、我々ユダヤ人は裁きと怒りは神に任せ、人を愛し、赦そうとするのだ。」

もちろん旧新約聖書とも、神は愛であり義であり、不義を怒り、罪人を赦す方です。怒りと裁きは主にお任せし、私たちは専ら愛と赦しに努めるべきです。それは、ユダヤ教徒もクリスチャンも同じです。

神の義を実現するのは、人の感情的な怒りではなく、神の公正な怒りです。私たちが神の義を実現するためにすべきことは、忍耐し、赦し、待ち望むことです。(今上映中の『42―世界を変えた男』を見ましたが、まさにそれを実現した黒人野球選手の物語でした)。