信仰を高いレベルに

今年は、やや高めに目標を設定しました。その目標を今年の暮れまで忘れないで、常に意識していこうと思います。昨年の反省もあります。私の場合、やはり具体的で、目に見えるような到達点がないと、時間を無駄にしてしまうようです。

4月には還暦を迎えますが、多少無理をしようと思います。ますます時間を無駄にはできなくなってきました。信仰は無理しなくてもいい、自分の信じられる範囲でやっていけばいい、という教えは聖書にはありません。生温さに慣れていると、信仰の核の熱まで冷めていきます。そういう意味で、ますます無理しなければならない年になったと思います。

教会と牧師としての目標、個人的な信仰の目標、読書や執筆の目標、健康のための目標など、いくつかの分野にして箇条書きにしました。それは、主と私の間だけに秘めて置きます。主と向かい合って決めたことだからです。健康のために今年400万歩を歩くという目標以外は(昨年は286万歩どまり)。

当たり前ですが、「人が変わる」ことは目標にはしません。目標は自分が変えられることです。人が変えられることは、その人自身の目標です。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき・・なさい」(ロマ12:2)

もしまだでしたら、皆さんも主と向かい合い、目標を立てることをお勧めします。しかも、少し高い信仰のレベルに達するための目標を。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴 29:18)、つまり、目標がなければ、人は勝って気ままに自由と時間を使ってしまいます。パウロは、「決勝点がどこかわからないような走り方はしていません」(Ⅰコリ9:26)「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリ3:14)と言っています。私たちも同じ走り方をしましょう。