キリストの栄光教会はその名の通り、キリストの栄光だけを現わすことをゴールにした教会です。牧師中心の教会ではなく、信徒中心でもなく、キリスト中心の教会です。いい意味でも悪意味でも、「〇〇先生の教会」と呼ばれることをよしとしません。欧米の教会で、そんな呼び方は聞いたことがありません。欧米の教会が模範というわけではありませんが、この点では聖書的だと思います。儒教の影響が残る東アジアの教会では、「先生」の権威が強く、「先生」との人間的な関係が物を言い、「先生(牧師中心主義)」になりがちです。キリストよりも「先生」が表立って称賛されることも多々見聞します。
『使徒の働き』のなかで、ペテロやパウロや使徒たちが、聖霊の力によってどんなわざを行っても、彼らが称賛されたことは一度もありません。そうなりそうになったときは、止めています。たたえられるべきは主だけであるという姿勢を決して崩しませんでした。
ペテロは大祭司たちに向かい、「人に従うより、神に従うべきです」(5:29)と宣言していますが、それは今日の教会内においても大切な信仰姿勢です。指導者・牧師やその働きを異様に崇めるのは、異端やカルトと呼ばれるグループや教会の特徴の1つでもあります。
教会は、キリスト中心であって、どんな意味でも人間中心主義ではありません。聖餐式も洗礼式も、献児式も結婚式も葬儀も、教会がキリストの権威に基づいて行います。牧師が、牧師自身の権威で行っているのではありません。牧師は主から受けた権威で、主の体である教会として、行っているのです。ですから、「〇〇先生から洗礼を受けた」ということには、本質的には何の意味もありません。
確かに、聖書が語るとおり、子は父の、妻は夫の、信徒は指導者の権威を尊ぶべきです。しかし、その権威も主から授けられているのであって、父、夫、指導者は権威主義になってはならないのです。権威を授けられている者ほど、畏れと謙虚を保つべきだと思います。