小笠原敬承斎著『誰も教えてくれない男の礼儀作法』(光文社新書)に、こんな話が載っていました。
著者の曾祖母の叔父は昭和まで生きた大名でした。ある日、大名の食膳に虫の死骸が入っていたことがありました。もし大名がそれに気が付いた素振りを周囲に見せようものなら、料理を作った者は切腹をする騒ぎになってしまいます。そういうときは無理をしてでも、ご飯と一緒に虫を飲み込んでしまったそうです。こうして周囲の人たちはだれも気付かず、何事もなかったことになりました。それが、「上の立場にある者の潔さ」なのだということでした。世間知らずで我儘な「お殿様」のイメージとはほど遠いですね。
私たちもこうした優しい人々の潔さで、知らないうちに今までどれほど赦され、救われてきたことでしょうか。そう想像してみれば、おのずから謙遜にさせられます。
自分が損をしても、人の失敗や弱さや恥を隠すことが、大人の愛の潔さと言えるのでしょう(どんな場合でも不正や罪を隠せばいいというのではありませんが)。そういう愛と潔さがあって、世の中は保たれているのだと思います。
その潔さはけっして損な役回りではありません。キリストに選ばれて救いを受けた私たちは、祝福する者として世に立てられています。祝福するとは、時に喜んで損をすることでもあります。主だけが私たちの潔さを知って、喜んでくださることでしょう。私たちもまた、キリストのとりなしによって、知らずして犯した罪が見過ごされ、赦され、忘れられているのです。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(Ⅰペテロ 4:8)。