震災と教会③

先週は、惨事や災害は悔い改めの時であることをお話しました。悔い改めがなければ救いはなく、社会は復興しても霊性は旧態依然です。大きな痛みを負っても、人生観は以前と変わらず、同じ世俗的な生き方に戻るだけというのは悲しいことです。誰であれ、悔い改めなければ滅びます。真の悔い改めを知るクリスチャンは、その模範となり、警鐘を鳴らさなければなりません。

とはいえ、家族を亡くし家や職を失い、深く傷ついている被災者に、キリストの救いを伝えることは至難です。もちろん、いきなり悔い改めを勧めることはできません。しかし、被災者といえども主の前には罪人であり、悔い改めなければ滅びます。私たちが悲しみをともにし支援するだけでは、霊の新生に導くことはできません。では、どうすればいいのか。

ある教会は、それでも、被災した人が今最も必要としているものをとにかく差し出すことに終始します。それが教会の本分、キリストの心だと確信してのことです(マタイ7:12)。教会は地域の人々を助けたという実績を残し、将来の種蒔きとするのです。まず関係作りだというのです。

またある教会は、被災者を支援しつつ、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(Ⅱテモ 4:2)を実践します。被災者の状況に配慮しながらも、伝えるべき一番大事なことを賢く伝えるのです。大災害を体験し、物的・精神的に援助しても何も変わらなかったという過去をもち、即宣教しなければ救える人も救えないことを知った教会です。

では、私たちGCCは、震災時、どうするかです。皆さんにも、聖書を通し、また地域性なども含めて、一緒に考えて欲しいと思います。二者択一ではありませんが、何を最優先するかです。神の愛と義の両方をどう表わしていくかです。キリストのならどうされるか、と考えてもいいでしょう。