ルカ15章の「放蕩息子」のたとえ話の中にこんな一節があります。
「それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(新改訳13節)。
「湯水のように」という表現は、雨が多い日本においてはぴったりです。しかし、中東のような乾燥した地域では、実情にまったくそぐわない表現でしょう。ときには、100ccの水のほうが同じ重さの金よりも価値が高くなることさえあるからです。
それゆえ、聖書には水を求めて渇く場面がたびたび出てきますし、心の虚しさ、苦しみを描く「渇き」も切実なものとなります。
「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」(詩 63:1)。「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました」(詩 69:3)。「飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた」(詩 107:5)
私たちは水に渇いたことがなく、舌が上あごにくっついて、気が遠くなったという体験はありません。祈りの中で主に向かい、「あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」という表現を使ったとしても、実感に乏しいのではないでしょうか。
飢えもそうです。いつも胃袋は満ち足りています。日ごとの糧の心配はおろか、いかに食べないでおくかのほうが戦いです。
現代は、熱中症の心配があるので水は飲むべきですが、健康な人は食は抜いても大丈夫です。一週に一食でも抜いて空腹の苦しみを体験してみませんか。そして、その苦しみを、主を求める飢え渇きに変えてみてください。聖書に書かれた「主を求めて飢え渇く」ことの切実さに少しでも近付こうではありませんか。今まで打ち破れなかった壁が打ち破れ、新しい恵みの世界に入る日が来ると信じます。