恵み・・・良い行いに励む

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行いによらず信仰によって救われるというのが、クリスチャンの確信です。私たちは過去、現在、未来の罪がすべて赦されるという十字架の恵みを受けています。しかし、その恵みをあてにして、行いはどうでもいいというわけではありません。むしろ、救われた今のほうが、救われる前より良い行いに励みます。パウロはこう述べています。
「私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです」(テトス3:14、「正しい仕事」は、原文では「良い働き」「良い行い」と訳せる)。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ 2:10)。
もちろん、良い行いをすることに失敗し、罪を犯しても、恵みによる救いは変わりません。悔い改めを明確にするなら、罪赦されます。しかし、キリストの十字架は、「何度罪を犯してもいいよ、良い行いをしなくてもいいよ」という「免罪符」ではありません。
BFP[オリーブライフ]5月号に、サーカスの綱渡りのたとえが紹介されていました。試技中、万一落下しても安全を確保するネットが張ってあるので、死ぬことはありません。そのセーフティネットは「恵み」です。しかし、高所で綱渡りができるのは恵みではありません。練習の結果です。その「恵み」に頼り切って、真剣に練習をせず、だらしなく何度も落ちていたのでは、いつまでたってもプロの曲芸人にはなれません。観客は、曲芸人が綱から落ちてネットで助かるのを見て、喜ぶために来るわけではないのです。
私たちの観客は主ただおひとりです。信仰生活とは「神を喜ばせる」ことです。(Ⅱテモ 2:4)。神を喜ばせようと誠実に訓練して、失敗しても「恵み」があります。安心して良い行いに励みましょう。その誠実を主は喜んでくださいます。