ある地方都市が、過疎化対策の一環として、広くて快適な一戸建ての家をたくさん新築し、抽選で移住者に無償提供しました。そこは自然豊かで、交通の便も良く、ショッピングセンターや病院などの施設も充実した街です。職を見つけることも難しくはありません。夢みたいな条件です。Aさん夫婦は応募して当選し、早速、住民登録し、登記も済ませました。
ところが、Aさんはなかなか引越ししようとはせず、大都会の6畳二間の安アパートにとどまったままでした。妻がせっついても、ぐずぐずして引越しの日程さえ決めようとしないのです。理由は、その地方都市には、パチンコ屋がなかったからです。登録した新居には、せいぜい週に一度、日帰りで出かける程度で、草引きや掃除で疲れるだけでした。そうして1年また1年と、空しく過ぎていくだけでした。
私たちは主なる神に選ばれ、永遠の命を受け、神の国に入れられるという恵みを受けました。なのに、神の国に移住してその祝福を楽しむことをしないなら、ほんとうに残念なことです。キリストが神の国をもたらすために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれたことを思えば、あまりにも悲しいことです。
パウロは、「私は神の恵みを無にはしません」(ガラテヤ2:21)と断言しました。十字架の恵みの大きさを思い知ったからです。私たちは、恵みの大きさ、深さをどれだけわかっているのでしょうか。それがわかっている分だけ、恵みを無駄にしない生き方をするだろうと思います。
私自身は、18歳で洗礼を受けながら、キリストの恵みの大きさ、神の国の祝福の豊かさを理解せず、この世の知識に振り回され、刹那的なことに縛られて時を移してしまいました。過ぎたこととはいえ、思い返すと悔しくなります。パウロもまた、キリストの恵みを無にした、いやキリストの教会を迫害し、恵みに反抗した過去がありました。その分、「恵みを無にはしない」という言葉には重みがあります。
さて、恵みを無にはしない生き方をするには何をすればいいか、真剣に祈って求めてください。でなければ、信仰を働かせて行動することなく、人生を終えてしまいます。