この週報裏が毎日曜日「メモ」では寂しかろうということで、エッセイを寄稿しようと思い立ったのが10月19日(日)のこと。ある教会員の方の勧めもあり、内容は主に仕えるために勇気を出して一歩を踏み出そうという内容…だったのですが、まぁ纏まらない。
書き出しと締めの言葉が繋がらず、結局文章が書き上がらないうちに迎えた先の26日の日曜日。言いたいことを全部、大塚先生に言われてしまいました。何事にも「時がある」とはよく言ったものですね。
さて、私はアルイェ(男子中高生グループ)の学びを導く奉仕を担当しています。アルイェでの学びは、大人のエクレシアと同じ内容を扱っています。それまでのCSとは空気が変わり、聖書の言葉に対する姿勢や行いに、選択肢を持つように促されるという変化が訪れます。そして先人たち同様に、教会に漠然と行くことに疑問が生じる年頃でもあります。言葉にできない感情によって教会に行くことがなぜか億劫になってしまう……そんな時に実践して欲しい2つのことがあります。それは「聖書通読」と「奉仕者となること」です。一見矛盾して見える薦めですが、自分の気持ちや状況を一旦置いてなんとか実行してみてほしいです。
主は私達が望む望まないに関わらず恵みを与えようとご計画しておられます(まぁ私はのぞむですが)。なんでもいいから主のご支配に一歩足を踏み入れてしまえば、もう全ては主のもの。思い返す頃には初めの疑問など忘れて全てが恵みだったと知るわけです。
これを読んだ大人の方にも、そうだその通りだ、と同意いただけると思います。ならば若者たちだけに通読と奉仕をさせるわけにはまいりませんよね?先達が模範を見せる時が来ています。
私が初めてGCCの奉仕者としてスライドの操作をしたのは、コロナ期に賛美奉仕のメンバーがごっそり自宅待機になったタイミングでした。人は必要に迫られたならば、能力的にできるかどうかを問わずやるものです。
そして、これを読んで必要に迫られていると感じたあなた、今が「その時」ではないでしょうか。 (「隗より始めよ」とは、大きなことをするにしても小さなことからやりましょう。 あるいは、いい出した人が最初に行動しなさいという意味です。)