言い訳上手

あなたは言い訳上手ですか。
自分の落ち度を何とか切り抜けようと、言葉を尽くして言い訳したことは、誰でも一度はあるでしょう。そんなとき、人から「いやいや、見事な言い訳でした。こんなすばらしい弁解は、聞いたことがありません。まことに感服いたしました」と称賛されたら、喜びますか。その皮肉に恥ずかしくなるでしょう。
 あなたは日頃、どんな言い訳、弁解をしていますか。ちょっと振り返ってみてください。中には、これは言い訳ではないと言いたい「言い訳」もあるかもしれません。その言い訳は、自分が許し、人が許しても、主の前では許されるでしょうか。
「一流の人間は言い訳をしない」といわれます。言い訳上手な人で、偉大なことをした人はいません。本当にそうだと思います。反省がない。反省がないと、同じことを繰り返す。同じことを繰り返して、成長がない、ということになるでしょう。
 ヤコブの四男ユダは、エジプトで宰相になっていた弟のヨセフの前で、「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう」(創世記44:16)と、正直さを貫きました。弁解しなかったことが、兄弟たちの和解を導き、ヤコブ一家の窮地を救うことになりました。
 パウロは、神を知らないことに弁解の余地はないし、人を裁く人に弁解の余地はない、と言っています(ロマ1:20、2:1)。主の前に、自分の罪を言い逃れることはできません。
さて、私自身は、「言い訳のタラント」はないと思いますが、言い訳と弁解で生きているようなところがあります。最近は、年齢を言い訳にしてしまいます。
 しかし、弁解するのは、「遅刻して何が悪い」などと開き直るよりは、ましだと思います。弁解するということは、責められたくないという思いがあるからです。つまり、弁解は「私は正しくありたい」という人間の本能の裏返しでもあるのです。
 弁解しそうになったら、自分には「正しくありたい」という本能が残っているのだと主に感謝して、人には謝りましょう。弁解上手より、謝罪上手がいいですね。