この本を読んで、僕の心に留まったことを二つ書きます。
一つ目は、人は誰でも何かを礼拝しているが、多くの人が自分は何を礼拝しているのか認識していない、ということです。
人間は礼拝をするために造られました。ただ、多くの人は唯一の神を知らず、自分が神と思うもの、自分が一番大切にしているものなどを礼拝しています。本人に自覚はないかもしれません。しかし、人は自分が礼拝しているものに少なからず影響されます。
僕たちは唯一の神を礼拝し、神に似た者となるという目標を持っています。つまり、礼拝される方は、礼拝する人々の中にその性質を現し始めるのです。なので、何を礼拝するかは、礼拝する人の価値観、優先順位、そして究極的に「その人が何者になるのか」を決定します。何を礼拝しているかを認識していなくても、その人の道は必ず礼拝する対象に左右されるのです。
二つ目は、礼拝の時にこそ、神さまはご自身の性質を現してくださるということです。
このたとえに著者はアブラハムの話を出していました。神さまはアブラハムに、「イサクをモリヤの山で捧げなさい」、つまり「私を礼拝しなさい」と言われました。アブラハムは最終的にイサクを捧げる決心をしました。この決心の根本には、神様がイサクをよみがえらせてくださるという確信があったからだそうです(ヘブル11:17-19)。
結果的に、アブラハムは神さまのテストに合格しましたが、このできごとには神さまの意図が他にもある、と著者は言います。その意図、または目的とは、アブラハムの心の内にあった「イサクを失いたくない」という恐れを取り除くことです。この難問を見事クリアしたアブラハムは祝福の道を歩みました。
私たちは何かを失うことを恐れますが、その「恐れ」を取り除くことによって祝福されます。その恐れを取り除く場所が礼拝です。礼拝の中で、神さまは恵みと憐れみにより、私たちの心から恐れを取り除いてくださるのです。 (北尾真徒)