先日娘と一緒に、長野県東御市にあるぶどう園で、アルバイトをする機会がありました。
朝、ぶどう畑に向かうと、そこには他に8人ほどの働き手がいました。ご主人はまず、「遊びに来ていると思われる方、作業に集中しない方、こちらの指示を聞かない方には帰っていただきます」と厳しい一言を発しました。
少し緊張した空気の中、作業内容の説明が始まりました。6月初めのぶどうは、小さい実を付けた房が沢山なっており、元気に伸びたツルや枝葉が茂っています。驚くほど太い主幹から分かれ出た太い枝と、そこから今年伸びた緑色の新しい枝。その新しい枝一本につき、良い房を一つだけ残す。残すと決めた15センチほどの房の先端3センチから4センチ(品種によって違う)だけ実を残して、それより上はこそげとり、ツルを切り落とし、枝の先端を少し切り落とす。というのが私たちの任務でした。終始、上を見上げながらの作業なので首は痛くなり、腕も疲れる。それでも高原の爽やかな風に吹かれながら7時間ほどの作業を終えました。ご主人にはまた来てくださいね、と言われほっとしました。
何より驚いたのは、残す実よりも切り捨てる房の方がはるかに、恐らく何十倍?も多いこと。最初から最後まで、せっかくの綺麗な房の数々をばっさりと切り落とす事に惜しい気持ちを覚えながら、しかしこの残された小さな粒たちが、あの立派なシャインマスカットになるんだ、と期待と希望も込めて切り進めました。ほかの実を切り落とす事によって、残された実に根からの養分がたっぷり流れ込むので、美味しいぶどうができる。
神様は私たちに祝福をたっぷりと注ぎ、いのちの御霊で満たそうとして下さっているのです。しかし私たちにたくさんの分かれた枝や余計な実がついているとき、それは分散してしまって、結局良い実を成らせることができないのだな、と痛感しました。切り落とす作業は決意が要ります。しかし、主のことばに従うとき、必ず良い実をならせることができる。それだけを求めたい。そのようなことを教えられた一日でした。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」(ルカ10:42)