子猫殺し

作家坂東眞砂子さんのエッセー「子猫殺し」(日経新聞)についての議論が沸騰しているそうです。作家は、飼い猫が産んだばかりの子猫を意図的に空き地に捨てて死なせたと、書いたのです。それは飼い猫に避妊手術を施さずに「自然の生」を生きさせ、同時に社会に対して責任を取る(野良猫を増やさない)行為でした。寄せられた読者の声は、大半が作家への批判だったようです。

しかし、「子猫殺し」を「むごい」「かわいそうだ」と、ただ感情だけで非難すれば、作家の用意した「落とし穴」にはまるのでないかと思います。つまり、「殺して食べるために動物を飼う牧畜業はなぜ非難しないのか」「動物実験で殺すことはなぜ容認する」「ペットと家畜の命に差をつける客観的根拠は何か」「ゴキブリや蚊を見ると潰したがる人をなぜ責めないのか」「殺虫剤製造の会社は非難されるべきではないか」「野良犬は捕らえられて処分されている現実は見逃がすのか」「人工妊娠中絶で、世界で年間何千万もの胎児が殺されているのを容認しているではないか」「世界で毎日1500人の子供たちが飢え死にしているのを聞いても何もしないではないか」・・・と逆襲され、「子猫殺し」の批判者は結局、偽善者だ、となってしまいます。
動物の命を論じ始めると、泥沼化します。人間は、他の生き物を殺さずには生きてはいけない矛盾に満ちた生き物だからです。

旧約聖書では、人の罪の身代わりとして、羊、山羊、牛、山鳩などがいけにえとされました。マルコの福音書5章では、キリストは、2000匹の豚が湖になだれ込んで溺れ死ぬのをそのままになさっています。たった一人の「汚れた霊に憑かれた男」を自己破壊から救い、永遠の命を得させるためです。「2000匹もの豚の命を犠牲にするなんて」とキリストを非難するなら、どんな自己矛盾に陥るでしょうか。なにしろキリストは、最後には私たちを救うために、ご自身の命を捧げられたのですから。