私の子供たちは幼い頃、階段から落ち顔面を打って唇がくちばしになり、ジャングルジムで鎖骨を折り、すべり台から落ちて病院に運ばれるほど額を切り、教会敷地の木に登って落ちて腕を折り、海岸の岩で転んで顔を打ち「お岩さん」になりました。そんなことが起こっても、階段、すべり台、木、岩が悪いと考える時代ではありませんでした。
ところが最近、公園からシーソーとジャングルジムが撤去されているというニュースがありました。子供たちがそれで遊んでいてケガをすると、親が公園側の責任を追求するようになってきたので、公園側としてはやむを得ないのだということでした。
何か変な気がします。子供は行動すれば、必ず危険に遭遇します。生活の場のどこにでも危険は潜んでいます。その危険を全部除去して子供を守るのではなく、危険が伴うことを教えて、自らを危険から守ることを体で学ばせる方が得策でしょう。
何かにチャレンジすれば、「ケガ」をするのは避けえません。いや、生きていれば、必ず何かで大なり小なり傷つきます。むしろ、生きるとは傷つくことだ、というぐらいの気構えが必要でしょう。それは、体だけでなく心についても言えることです。
私たちの主キリストは、私たちに対し、信仰のチャレンジをするようにと励まされます。そして、失敗した者を訓練し、傷ついた者を癒し、さらに強い信仰者に育ててくださいます。そんな方が私たちと共に歩んでくださいます。ですから、一度もチャレンジせず、失敗も傷つきもしなかったという人生こそが失敗なのです。ペテロは何度も挑戦し、何度も失敗し、主にたしなめられ、赦され、鍛えられ、そして初代教会の指導者に立たされました。失敗や傷つくことを恐れず、信仰の飛躍をしましょう。
「立派な人間ほど多くの失敗をしている。その人は新しいことに何度もチャレンジするからだ。私は失敗しない人間を社のトップに昇進させることはしない。そんな者は平凡な人間に決まっているからである」(P.ドラッガ-)