徹底した絶望こそ大望の始まり

「失望の中でこそ、大望は見つけ出されるのです。大望を持たずに、恨みを晴らしたとて、何になりましょう。」

 NHK大河ドラマ「風林火山」が、前半の佳境を迎えています。信仰的、時代的限界はありますが、ドラマの随所に光るものを感じます。冒頭は、武田家に滅ぼされた諏訪家の由布姫に、主人公の山本勘助が「生きる道」を説いたときの言葉です。由布姫は頼りとするものをすべて失い、父を自害に追いやった武田晴信への恨みだけを生きるよすがとしていましたが、この言葉で、武田と諏訪をつなぐために、晴信の側室となる決心をするのです。

大望は、絶望から生まれます。社会に絶望し、自分に絶望し、時代環境に絶望し、人間に絶望し、目に見えるものに絶望したところから、真の希望が始まります。絶望したので死ぬというのは、もったいないかぎりです。死にたいと思うほどの絶望は、そうできるものではありません。どこかにまだ頼れるものが残されている程度の絶望は、中途半端な絶望です。そんな絶望からは、中途半端な希望しか生まれてはきません。全面的に、徹底的に絶望を知った者だけが、真の希望、永遠の希望を見出しえるのです。

そして、その希望を成就するには、恨み、妬み、復讐心などの有害な感情を捨てることです。復讐心や被害者意識だけて生きている人は、本当に哀れです。心も体も病気になります。たとえ憎む相手を不幸にしても、自分が幸福になれるわけではありません。一緒に不幸になるだけです。

聖書はこう語ります。「自分の心に頼る者は愚かな者、(神の)知恵をもって歩む者は救われる」(箴言28・26)。人間という存在に絶望し、自分の力に頼ることを止め、神に真の希望を見出し、人への恨みから解放されたとき、私たちは初めて、幸福への道を歩み出すことができます。