キリストの栄光教会が設立される前、私たち夫婦は、日本基督教団から福音派、ペンテコステ派、カリスマ派まで、新旧大小様々な教会の礼拝に出席した。
たいていの教会は礼拝プログラムがきちんと組まれ、式は整然と進んだ。ある教会では、司会者のアナウンスなしに会衆は立ったり座ったりし、奏楽と共に賛美歌を開き歌い始めた。こうした教会では、何がなされるか予想できるので安心して神に向かえる。思いもかけないことや脱線はなく、メッセージの始まりと終わりの時間、献金の時間、礼拝が終わる時間が計算できる。しかし、意識せずとも体は反射的に動き、心の冒険はなく、礼拝中に「霊的スイッチ」をオフにして、仕事や学校、家族や友人、明日のことや心配事に心を馳せ、しばし自分の思索や空想の世界に入ってしまうこともある。
一方、ある教会はプログラムがまったくなかった。なのに司会者がいない。いつ何が始まるのか、始まった讃美やメッセージはいつ終わるのか、立つのか座るのかもわからない。メッセージも何が語られ、どこへ行くのか予測がつかない。戸惑うが、心が別の世界にさまよう暇がない。よく言えば、新鮮で、変化に富み、睡魔に襲われることはない。
そこで考えたこと。秩序ある礼拝は望ましいが、予測不可能な要素も必要である。聖霊の思いがけないわざを期待し、主の語りかけに応答するという時間は大切だ。安心感と同時に期待感、わくわく感のある礼拝でありたい。
礼拝だけではなく、日々の生活も同じである。安定した信仰生活の基盤が確立されていることは大切だ。だが、聖霊様が思わぬことをしてくださるという期待感、わくわく感がなくなったら、信仰は形骸化する。成長とは、安定した信仰生活の中で起こる変化のことである。主への信頼が確固としているなら、どんな変化も恐れる必要はない。むしろ期待すべきだ。聖霊の思いがけないわざを待ち構える自由な空間を、心の中にいつも用意しておこう。それがわくわく感である。