五木の子守唄

先月、熊本に行き、ふと「五木の子守唄」を思い出しました。

「おどまかんじんかんじん あん人たちゃよか衆(し)。よか衆ゃよか帯 よか着物(きもん)」(私は物もらい、あの人たちは裕福な人たち。良い帯を締めて良い服を着ている)。

貧しい小作人の子供たちは、食い扶持を減らすため、金持ちの家に奉公に出されました。奉公といっても、食べさせてもらうだけで、給金は出ません。奴隷同然です。この歌の続きには、「おどんが打死だときゃ 誰が泣(に)ゃてくりゅか。裏の松山ゃ 蝉が鳴く」(私が死んでも、誰が泣いてくれることか。ただ、裏の松山のせみが鳴く)とあります。あまりにもやるせなく哀れで悲しい歌です。

しかし、この歌には、「よか衆」への恨みがないのです。最後のほうではこう歌われます。「おどんが死んだなら 道端(みちばち)ゃいけろ 人の通るごち 花あげる」(私が死んだら道端に葬ってくれ。通る人ごとに花を上げたいから)。恨みどころか、人を喜ばせたいという気持ちがあります。ほっとさせると同時に、いとおしさを感じさせます。

 韓国は四年に一度、外国の侵略を受けるという辛酸を嘗めた国です。韓国人には、そんな歴史から生まれた「恨(ハン)」という民族的感情があります。恨という漢字で表しても、「うらみ」というのではないそうです。悲惨な歴史を否応なく負わされた民族の悲しみ、苦しみ、屈辱、やるせなさが心の中にたまって醸成された、鬱屈とした感情だそうです。外国人には理解できないと聞きました。しかし、20世紀、そんな韓国に、主の恵みと慈しみが豊かに注がれました。以来、韓国の教会は「ハン」を越えて、敵国であった日本に主の祝福をもたらそうとしてくれています。

 だれでも、大なり小なり、親から受け継いだ性格や能力への劣等感、人から受けた傷などにうずくものを持っています。しかし、主の十字架は、呪いを祝福に変えます。鬱屈とした感情から解放します。私たちは、自分のあらゆる領域に十字架を立てて、恵みで満たされ、主の祝福を広げる役割を果たしたいと思います。