明治の負け組

勝ち組、負け組とは嫌な言葉ですが、主は原則として、負け組を用いられます(ただ謙遜でなければなりませんが)。日本のプロテスタント教会の黎明もそうでした。
明治維新の勝ち組といえば、おおむね薩長土肥を中心とする下級武士と、朝廷の下級貴族でした。その代表的な人物としては、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などが挙げられます。一方負け組みは、徳川慶喜をはじめとする幕府側の人々、あるいは没落士族だといえましょう。その没落士族から、キリスト信仰は胎動しました。

東京一番町一致教会(現日本キリスト教団富士見町教会)を設立した(1887年)牧師植村正久は、徳川家に仕えた最古参の旗本出身。キリスト教伝道者・神学者の内村鑑三は高崎藩士の長男。ミッション系の東京女子大の初代学長や国際連盟事務次官などを務めた教育者新渡戸稲造は元盛岡藩士。同志社大学の創立者新島襄は安中藩士でした。そのほか、明治期のキリスト教会で指導的な役割を果たした牧師、伝道者の多くが没落士族出身、つまり明治維新の負け組みです。
女性たちもそうです。

1872(明治4)年に欧米に派遣された岩倉具視使節団の中に、5人の女子留学生が伴われていました。彼女らは、比較的下級の幕臣の娘たちでした。その中で最年少の津田梅は、数えで9歳でした。父の津田仙は、元佐倉藩士で、カリフォルニアのリンゴを日本に移植、東京市街に街路樹を植え並木道を造った人です。梅の留学には積極的でした。仙は日本キリスト教会の重鎮として、青山学院創設の礎を築いたことでも知られています(今年青山学院では津田仙没後百年の記念プログラムが行われました)。そして、言うまでもなく、娘の梅は津田塾女子大学の創設者です。

社会の負け組みになっても、謙遜と志を失わない限り、主に用いられる道は広く開かれています。むしろ負け組みにならないと開かれない信仰の世界があります。「神は御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」(ピリピ2・13)と信じましょう。