昔、ユダの国にヒゼキヤという王がいた。彼が病気なったとき、預言者イザヤが来て言った。「身辺を整理せよ。あなたは死ぬ。」王は大声で泣きながら祈った。神はその祈りを聞かれ、命を15年延ばして下さった。それからしばらくして、ヒゼキヤ王は外交政策上、非常に軽率な失敗をしでかした。再びイザヤが来て言った。「あなたの王国は滅ぼされる。あなたの子孫はバビロンに連行されよう。」それを聞いた王は「ありがたい預言だ」と言って、今度は泣きも祈りもしなかった。自分の生きている間は平和で安全だと思ったからである(II列王20・16〜19)。そして、預言どおりヒゼキヤの死後百年して、ユダ王国は滅んだ。
社会が崩壊しようが、自然が汚染されようが、未来の世界がどうなろうが、今さえよければいい。自分のこととなると必死になるが、自分とは関係のないことについてはどうなろうとかまわない。こうした生き方を「ヒゼキヤ主義」と呼ぼう。
現代は、ヒゼキヤ主義が蔓延している。一人一人が王様だ。世界は自己を中心として回っている。破綻の足音を聞いているが、自分の時代には起こらないと思っている。そうして人類は、地球温暖化、食糧問題、金融危機など地球規模の危機をいくつも積み上げている。今や、いつ大事変が起こっても不思議ではない。でも、自分の生きている間に破滅がこなければ、それでいいのだ。
今、「地球は、我々の世代だけでなく、未来の人々との共有物だ」と叫ぶ人たちがいる。反ヒゼキヤ主義者だ。しかし、ヒゼキヤ主義者は叫び返す。「将来、人類が滅んでいけない理由があるか。地球を殺していけない理由があるか。地球や人類といったって、大昔に偶然に生じただけなのだから、いつまでも存続しなければならない理由はないはずだ。今の自分たちがよければそれでいいのだ。」
いまや、「人を殺してはいけない理由」どころか、人類や地球を滅ぼしてはいけない絶対的な理由さえ失われた。これが、19世紀末に「神を殺した」人類の成りの果てである。