筆記具類、紙類の質も量も貧弱で、識字率も低かった時代に、聖書や福音をどうやって伝え、広げたのでしょうか。記憶です。
私たちは聖書を昔の人のように記憶しなくなりました。昔の人のほうが記憶力はよかったのは間違いないと思います。今は、家にも教会にもカバンの中にも聖書があり、いつでも聖書を取り出して読めるので、聖書を覚えなくても済むのです。Jバイブルも登場し、語句検索も簡単になり、聖句を覚えていなくても、単語だけであっという間に引き出せるようになりました。頭の代わりをコンピュータが全部やってくれます。私などは、もう年だから覚えられないと言い訳して、最初から覚える努力を怠るようになっているところがあり、反省しきりです。
パウロはその書簡の中でいくつも旧約聖書の言葉を引用していますが、聖書をいつも持ち歩いて手元に置きながら、書簡を書いていたわけではありません。当時の聖書は大き過ぎて全部を簡単に持ち運びはできません。覚えるほかなかったのです。それゆえ、引用箇所が混ざっていたり、不正確であったりしているようです。でも、記憶に頼るほかありませんでしたし、引用が正確かどうか気にして入られなかったのかもしれません。なにしろ、とにかく伝えることが第一優先だったのだと思います。
現代は、まるで科学の論文でも書いているかのように、引用の正確さ、典拠、解釈の厳密さ、オリジナリティに過度に神経質になっています。時々息がつまりそうになります。欧米合理主義神学の弊害でしょう。主イエスや使徒たちの旧約聖書の引用と解釈は、現代の神学者や牧師より、はるかに自由自在であると思います。なぜか。理屈をこねるより、記憶することに力を注いでいたからではないでしょうか。
若い人も年長者も、もっと聖句や人名、地名、年代の暗記に力を入れましょう。忘れることを恐れずに。それらをたくさん覚えていると、聖書全体が網目のようにつながってきて、聖書を読むのが楽しくなります。聖書の理解力や想像力や発想力が高まります。メッセージの理解も深まります。御言葉が生活に密着し、豊かになります。一度試してみてください。お手伝いします。