新約聖書には、サドカイ派とパリサイ派の二つのグループが登場します。サドカイ派は大祭司や、祭司長、長老など社会の富裕層からなり、ユダヤの宗教、政治、社会の実権を握っていました。宗教的には神殿中心主義で、神殿で行われる儀式や祭りは彼らが担っていました。パリサイ派と異なり、復活や天使、悪霊の存在は信じていませんでした。政治的には、ローマ支配のもとで、良くいえば穏健主義、悪くいえば日和見主義、「長い者には巻かれろ」の立場です。
一方、パリサイ派はその多くが下級祭司であり、都市部だけではなくユダヤ、ガリラヤ地方にも住んでいた農民や職人でした。宗教的には律法を忠実に守り通そうとし、律法を知らない者、守らない者を罪人として軽蔑していました。もともとパリサイの名が、ヘブル語の「ペルシーム」(分離する)からきています。政治的には反ローマの民族主義、経済的には裕福ではありませんでした。
サドカイ派は神殿に、パリサイ派は律法に拠って立つ者といえます。では、主イエスはどうであったか。主は神殿を「祈りの家」「父の家」として尊び、律法については、その本質である愛を実践して、律法を成就されました。ところがその一方で、サマリヤの女に、こんなことを言われているのです。
「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。・・・神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」 (ヨハネ4・21、24)。
さて、紀元66年ローマとのユダヤ戦争が勃発した時、戦いに参加したのはパリサイ派、しなかったのはサドカイ派でした。クリスチャンは主イエスの残された勧告に従って、「山に逃げ」ています。そして70年エルサレムが陥落し、神殿が崩壊した後、三者はどうなったか。神殿を失ったサドカイ派は歴史の中に消え去り、パリサイ派は海辺の町ヤムニヤに律法の学校を開いて「ラビ中心のユダヤ教」としてしぶとく生き残り、そして、「霊とまことによる礼拝」を聖霊によって確立したキリスト教会は、異邦人の世界にも広がっていきました。目に見えるものか見えないものか、何に依拠するかで、明日が決まります。