マルティン・ルターは、一日数時間は祈った。特に忙しい日はさらに祈ったという。そんな祈りの人ルターも、祈りのスランプに陥ることがあった。
神に向かい呼びかけても、祈る前におびただしい妨害が割り込んでくる。どこを向いても、サタンが私の祈りを遅らせようと、いろんな理由を思いつかせる。いつの間にか、サタンにまんまとやられて、祈りが頓挫してしまう・・・そんな経験は誰でもあるだろう。
しかし、ルターはこう言う。
「真剣に祈ろうと決意するがいい。そうすれば、どんなにいろんな雑念に襲われて気が散るか、思ったとおりに始められないものなのかが、わかるだろう」。
私も一時間以上祈り続けても、電波の十分届かない山の中で、携帯電話を使って話しているような気分になることがある。祈りの言葉がプッツンプッツン切れて、たびたび不通になるのだ。そんな自分の祈りに苛立ったこともあった。
だから、ルターの体験の言葉はありがたい。なるほど、真剣に祈ろうとするから、サタンに邪魔されるのか。雑念で苦しむのは、真剣に祈ろうとすることの裏返しなのか。そうか、不真面目の結果ではないのだ。そうだわかると、心が楽になって、あきらめず真剣に祈ろうと思う。
もう一つ、私の祈る気持ちを楽にする主の言葉がある。
「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」(マタイ6・8)。
心を集中して、上手に祈ることができなくて祈りが終わってしまったとしても、主は私が一時間かけて祈りたかったことは何なのかわかっていてくださる、と確信させてくれる言葉だ。
それゆえ、許されている時間を目一杯祈り切ろう。気持ちだけは真剣に祈ろう。毎日続けよう。主は私たちの真剣さに応答してくださる。とにかく祈らなければ、祈りの結果は出ない。