メキシコの市場でネギを売っている男性がいた。アメリカのシカゴから来た旅行客が、彼に尋ねた。「一束、いくらだ?」「10セントです」。「20束全部買えば、いくらにしてくれる?」「いや、全部は売れません」「なぜだ?私が全部買えば、一日の仕事が終わって、楽になるじゃないか」。もっともに響く。
だが、メキシコ人は応えた。「この市場で、一日ネギを売って暮らすことが、私の生活でしてね。私はこの市場が好きで、この喧騒を愛してるんですよ。陽の光、揺れる樹々を楽しみ、友人たちが通りかかりに挨拶し、お客さんと子供や野菜作りの話をするのが幸せなんですよ。だから一日中、ここに座ってネギ売ってるんです。一度に全部売ったら、お金は稼げるが、一日がそれで終わってしまい、生活の喜びがなくなってしまうじゃないですか」(ハン・ホン『ヨシュア記――ライオンの心臓を持て』から)。
仕事は金儲けの手段だと割り切るべきではない。仕事の目的が単なる金儲けであるなら、仕事は虚無である。無目的なお金をため込めば、かえって心配事が増えるだけだ。旧約聖書の知者はこう語る。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい」(伝道者5・10)。今の仕事や職場に、金儲け以上の意義を見出せないなら、働き方を考え直すか、別の道を探るべきだろう。
ブラザー・ローレンス(仏17世紀)という人物は、人生の大半を小さな修道院の台所で、晩年は靴の修理工として、誠実に働いた。その清廉な生き方で、多くの人を慰め、台所の聖人、復活のローレンスと呼ばれた。台所を「神の臨在の場」となるように、生活したのである。クリスチャンには、どんな仕事でも、どんな職場でも、「聖人」となる道は開かれている。日常の小さな営みにも、永遠のいのちの意味と喜びを見つけることができる。