所有すれば所有される

インドを旅して、アーグラで高価な宝石を買った男性の話。しっかり見張っていないと盗まれるぞ、と忠告されたので、列車の個室に入り、向かい座席に宝石を置き、ずっと見張り続けることにした。数時間たつと疲れで眠くなったが、目を閉じないようにして頑張った。そうして睡魔と闘っていたが、まぶたが次第に重たくなり、ついに眠りに落ちてしまった。しばらくして目を覚ますと、案の定、宝石は消えていた。彼はショックを受けたが、心を落ち着かせて、自分に言い聞かせるようにひとりごちた。

「ああ、ついにこれで、心置きなく眠れる」。

 わざわざ大金を出して、眠れなくさせる物を買い込むのは愚かなことだ。持たなくていいものを持って、自由と平安を失うのは賢明なことではない。

 何かを所有すれば、逆にそれに所有されるようになる。この世のものや関係は、持てば持つほど不自由になる。とはいえ、私たちはこの世で生きる限り、所有せざるを得ないものは数多い。それゆえ決意しよう、たとえ所有しても、それらのものに心を支配されないと。「買う者は所有しない者のようにしていなさい」(?コリント7・30)とパウロは言う。心がつながれていなければ、いざという時、トカゲの尻尾のように、すぐに切り離して逃げることができる。お金や物や、趣味や世との関係や、地位や誇りが、私たちの心を縛り付けないように、それらとの間に「切れ目」を付けておこう。それが自由な関係だ。

 自由とは手放す勇気でもある。この自由が安眠を保証する。

 私たちが真に所有するのはキリストだけである。そして、キリストだけが私たちを所有し、支配し、縛り付ける。逆説的に、それが真の自由である。なぜなら、「あなたがたは真理を知り、真理はあなた方を自由にする」(ヨハネ8・32)からだ。キリストの真理に所有されなければ、別のものが人の心を支配する。常にキリストの支配に心を委ねよう。