「偶然という神」

進化論は、「人間は、他の動物と比べてなんら特別な存在ではなく、それらに勝るものでもなければ、特権を持っているのでもない」ことの宣言であった。

人類はなぜ存在しているのか。偶然である。偶然が生じさせた単細胞生物が、偶然によって変化を遂げてきて、今日の人類がある。進化説にあっては、「偶然」こそが創造主である。ヨハネの福音書1章1、3〜5節をもじるとこうなる。

「初めに、『偶然』があった。『偶然』は神とともにあった。『偶然』は神であった。・・すべてのものは『偶然』によって造られた。造られたもので、『偶然』によらずにできたものは一つもない。『偶然』にいのちがあった。この『偶然』こそ、人類の光であった。『偶然』は闇の中に輝いている。信仰という無知蒙昧の闇は、『偶然』には打ち勝たなかった。」

 すべての生命が地球上でどのように行動しようと、その歴史はすべて「偶然」という摂理の下に動く。生命の意志と、「偶然」という「神の摂理」が、見事に調和している。こうして、今日、人間の自由意志と「偶然」によって、「予定調和の麗しい世界」が出来上がっている。そして、人間も他の生物も同じだという冒頭の謙遜(いや卑屈)な宣言になった。

 これが、「偶然」によって進化の頂点に達した人間が、「偶然」から受けた最高の英知を駆使して到達した、「偶然」をほめたたえる「信仰」である。

しかし、この「偶然」という神がどんな未来に導くかは、決してわからない。おそらく、無に連れ戻すだけだろう。そして、一切何もなかったことになるのだろう。実際、生命誕生以来、天文学的数字の生命たちが無の中に消滅している。彼らがかつて存在したことは、存在しなかったことと同じである。人類もやがて、そうなる。

「偶然」という神は、私たちがどんなに一所懸命、誠実に生きても、「生きたことは生きなかったことと同じである」という報いを用意していてくれる。こんな「偶然信仰」を本気で生きたら、私は病気になる。進化論者が病気になってないとしたら、本気では信じていないのだろう。