「価値感」と書いたら、間違いである。「価値観」が正しい。しかし、1980年代ごろから、「価値感」と書く人が増えているそうである。斎藤孝氏は、最近の著書『若いうちに読みたい太宰治』で、今や十代の半分以上が「価値感」と書くのではないかと述べている。太宰の作品『女生徒』は、「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い」で始まる。『女生徒』は「価値感」で生きる豊かさを描いているのだそうだ。
いまや価値は、知性で判断するもの(価値観)ではなく、各人が感性で感じるもの(価値感)へと変わりつつある。つまり、価値判断は客観性を失ってきているのだ。「個人の感性を大切にせよ。個人の感じ方に良し悪しはない。他人が干渉するな」という主張である。ざっくばらんに言えば、価値は、好きか嫌いかで決めるということだ。
そういう風潮は、聖書にも記されている。士師記21章25節にこうある。
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」。
士師記の時代は混乱の時代だった。信仰の支柱となる存在がないので、個々人が勝手な感覚的判断で動いていた。だれでも時代の風潮に巻き込まれると、霊的洞察力を鈍らせてしまう。こうして民は、主を忘れては苦しむというサイクルを、2百年以上にわたり何度も繰り返した(そんな時代にも、モアブ人ルツが信仰の芳しい香りを放ったが)。
この風潮を打ち破ることになったのは、ハンナの祈りであった(Iサムエル1章)。その熱い祈りから、預言者で祭司で最後の士師となるサムエルが登場する。彼は、イスラエルの霊性を導き、ダビデによる統一王国の道備えをした。
絶対的に信頼できるものが崩れ、価値観や倫理観が混乱する時代にあって、人々の心を覚醒させるのは、小さな信仰者の隠れた熱い祈りである。そこから神の人、聖霊の大きなうねりが起こる。今こそ、「ハンナ」の祈りが求められている。祈りからしか始まらない。「士師記の時代」を続けるわけにはいかない。