真実な隣人愛

 ソウルで開かれたサラン教会日語部との連合修養会のテーマは、今年が日韓併合百年に当たることもあってか、「民族を越えて互いに愛し合う」でした。

 私は、日本留学の経験のある韓国人の若者たちと、率直にこんな会話を交わしました。

「今年のサッカーのワールドカップで、日韓ともベスト16まで行ったけれど、日本がベスト8をかけてウルグアイと戦った時、日本に勝って欲しいと思った。」「う?ん、微妙だな。正直言うと、負けて欲しいと思ったなあ。」「でも、アジア勢が勝たないと、次の大会ではアジアの出場枠が増えないわけでしょ。だから互いに勝ち進む必要がある」。「いやあ、それでも、日本だけには勝って欲しくないという気持ちですね。」

韓国が日本に勝つことを望むだけではなく、日本がどの国と対戦しても負けて欲しいと望む心情です。集まった日韓のクリスチャンが、キリストの名のゆえに、また隣人として、互いに愛し合おうと気持ちに嘘はないと思います。実際にそうしています。でも、そうはいっても、心の中には、事ある毎に歴史の中で受けてきた傷がうずき、競争心、嫉妬心、曰く言い難い感情が、むらむらと湧き上がってくるのです。それをどうすることもできないのです。この心情はよく理解できます。日本人にも、韓国に対して同じ思いがあるでしょう。韓国が負ければ、残念なんだけれども、なぜか同時に心の片隅でほっとするのです。

私たちは、「愛しているけれど嫌いだ。嫌いだけれども愛している」というような相反する感情を持っています。理屈では解けない感情です。しかし、越えていくべき感情です。互いに愛し合うことに、一点の曇りもない心を持ちたいのです。放置しておけば、何かの行き違いで炎となって燃え上がる可能性を秘めている感情だからです。

こうした感情は民族間だけではなく、兄弟姉妹や友人の間でもくすぶっていることはないでしょうか。そんな感情が生じるたびに、繰り返し十字架につけていかなければなりません。