権威、権力の源

藤原道長は、平安貴族の中でも最も権勢を極めた男である。

「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」(この世の中は、すべて私の思うがままだ。私の心は満月のように満ち足りて、何も欠けたものがない)

 この歌に、彼が上りつめた権力、栄華に満足しきった姿が映し出されている。

 私は、子供の頃から不思議に思ってきた。なぜ朝廷や貴族に権力があったのだろうと。平家、源氏政権ならまだわかる。彼ら自身が武力を持っていたからである。武力に人は服する。肉体的苦痛や死は避けたい。しかし、朝廷や貴族にはその武力はない。武家を利用するだけである。彼らの権力の源は何か。それは身分、伝統、文化の優位性、神秘性であろうか。朝廷や貴族は、そうしたものをありがたいものだと庶民に思わせることに成功したのだろう。おそらく、その源は聖徳太子の冠位十二階、十七条憲法に遡るのではないかと思う。彼らは、庶民が崇拝するかぎり、権力を維持できたのだ。

しかし、その魔法が解ける時が来た。長らくその権威に服していた武士たちが、自分たちの武の威力に気が付き始め、その力に頼んで自分たちの政権を築くようになった。

 その武家の時代も七百年ほどで終り、近代になると、知力、金力、能力が物を言うようになってきた。福沢諭吉などが、学問、財力、立身出世を金科玉条とし、それを崇拝する時代に変えていったのだ。今日もおおむねその流れにある。

 まことに、人は、自分が拝むものに支配される。それが偶像礼拝である。その権威を認め、それに服し、仕え、貢ぎ、礼拝するようになる。しかし、魔法が解ければ、人はそれらの支配から解放され、自由になる。お金に権威を認めなくなれば、お金に支配されないし、学歴や能力に権威を認めなければ、学歴や能力のあるなしに縛られなくなる。

 私たちはキリストだけを礼拝する。それゆえキリストの愛と真理に支配されるそれゆえ、この世あらゆることから自由だ。私たちには、「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするもの」(ガラ 6・14)はない。