今年の夏も、高校野球が熱かった。今年は、まだ優勝のない東北と北陸の代表2校が奇跡のような試合をして準決勝、そして1校が決勝まで進んだ。新潟の高校は優勝候補ではなかったが、勝ち進むうちに強いチームに化けていった。実力以上の力が出たのだろう。
「練習試合だったら、10回戦っても10回とも負ける相手だが、本番では、戦ってみなければわからない。」それが高校野球である。どの高校にも、1試合1試合が最後のチャンスである。1回負けたらおしまいなのだ。敗れたのちに、実力はウチのほうが上と言ってみても始まらない。負け惜しみにしか聞こえない。毎試合、あとがない戦いをしなければならない。だから、奇跡と涙のドラマも生まれる。
人生には、練習試合はない。いつも本番である。実力を出し切れなかったと、言ってみても、人生は戻ってはこない。逆に、「自分には到底できないことができてしまった。なぜできたのかわからない。もう一度同じことをしろと言われても、怖くてできない」ということが起こる。
才能に恵まれ、知識を積み、富を蓄え、健康な人が、必ずしも人生において、偉業を成し遂げるわけではない。学歴も富もなく、際立った才能があるとも思えない普通の人、病気などでハンディのある人が、人生の本番で艱難苦難を生き抜いていくうちに、大化けしてしまうことがある。高学歴・高地位の人たちや富裕層だけにチャンスが集まって、硬直化しつつある時代だからこそ、そういう人々の出現が待ち望まれる。
教会は、普通の人、この世では「愚かな者」「弱い者」「取るに足らない者」(Iコリ1・27,28)を自認する人々の集まりである。聖書に登場する人々は、アブラハム、モーセ、ダビデ、使徒ペテロをはじめ、みんなそんな人たちだった。しかし、人生の本番で、主によって立たされ、鍛えられ、偉大なわざを成し遂げた。試練を耐え抜くうちに、信仰の勇士に成長させられるのだ。主は、そんな奇跡と驚きのドラマをお創りになりたいのだろう。
自分には何もないからと言って、恐れてはならない。ドラマを創作されるのは主だ。