なぜ愚かな戦争を始めたのか

今日は終戦記念日です。なぜ我々は愚かな戦争をするのか、考える日です。
『戦争の日本近現代史』という本の著者加藤陽子氏が、偽政者や国民が、「だから戦争にうったえなければならない」「だから戦争をしていいのだ」という感覚を持つように変化していく歴史的経緯を述べています。国力の差からして、到底勝ち得ないアメリカとなぜ無謀な戦争を始めたのか。無残な敗戦を体験した後では、だれもが持つ疑問です。しかも、自暴自棄的な決断ではなく、開戦前は一部の人を除いて、為政者も知識人も国民も勝てると信じ込んでいたのだから、なおさら不思議です。
当時の為政者が勝てると踏んだのは、過去の歴史的事例からだそうです。1904?5年の日露戦争で大国ロシアに勝利したではないか。1560年、桶狭間の戦いで、織田信長は圧倒的大軍の今川義元軍に奇襲攻撃で勝利したではないか。たとえアメリカが大国でも、勝てないわけではない。こんな時代感覚、国際感覚だったのです。「戦って見なければ分からないではないか」。まるで高校野球のような感覚です。
戦争に訴えるほかない。戦争していいのだ。戦争しても大丈夫だ。勝つ見込みはある。戦えばきっと勝てる・・・しかし、この流れの最初には、「戦争したい。アメリカをやっつけたい」という欲望と憎悪があったのだと、私は思います。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」(ヤコブ 4・1)。
これに尽きると思います。「戦う欲望」あれば、戦争はどんな風にでも理屈をつけられます。正当化できます。戦争突入のための憎しみと怒りが煽り立てられます。有無を言わせぬ空気が作られます。歪んだ宗教心が用いられ、神々の名が持ち出されます。そして、敗戦で洗脳が解けるまで、愚かさに気づかないのです。
しかし、この愚かさは、国の中というより、私たちの心の中で起っていることなのだということを忘れてはなりません。