若いころ、私の視力は2・0を超えていたと思う。目の良さが自慢だった。しかし、20歳前、あっという間に0・2まで落ちた。あとは転がるように悪化していった。自分も似たような経過を辿ったと言う人は多いだろう。今日、目の良さを誇れる人は少数派ではないか。
しかし、人間の目は悪くなっても、けっこう感光力はあるのだそうだ。いや、驚異に値するほど感光度は高いという。たとえば、澄んだ夜空を見上げると、6等星以下の星の光でも認めることができる。何万光年も離れた星が発した光は、宇宙の四方に広がり、その光エネルギーの量は拡散し、何万年もたってほんのわずかな量だけが地球に届く。そして、その何粒かだけが見上げた人の目に入り、網膜を刺激することになる。そのとき「あ、あそこにも星が光っている」と叫ぶのだ。メガネをかけていれば、私の目だって見える。
創造主が人間の目をそのように造っておられるのだ。心の目についてもそう言える。どんなに心の目の「感光力」が落ちている人でも、キリストの光は必ず届いて、その「網膜」を刺激しているはずだ。
「夜空に星を探す時は、真っ直ぐに星を見てはいけない。眼の端で捉えるように。直視すると見えるか見えないかの暗い星も、眼の端で見るとぐんと輝きを増すのだ」(福岡伸一『世界は分けてもわからない』講談新書参照)そうだ。
私たちが、キリストの光を直視できないときでも、心は端っこでその光を捉えている。主の恵みによって、輝きを増しさえするだろう。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(詩 119・130)。ただ、御言葉が心に直接入り込まない時も、御言葉に接していよう。光に自分をさらしていよう。
また、私たちも周囲の人にキリストの光を投げかけよう。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て」(マタ 5・16)、その人の心の端で輝きを増す日が来ると信じよう。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ 1・5)のだから。