帰郷して、半分寝て過ごしている父と、初期のアルツハイマーの母と3日間を過ごし、いろんなことに気づかされました。
二人とも記憶が長く続きません。父は週に3日、デイサービスで出かけますが、朝ごとに、今日はその日かどうかを母に聞きます。しかし、母も定かではなく、予定表で確認しようとします。しかし、「今日は何曜日やったかなぁ?」「さあ、火曜日か?」「あんた、昨日は(デイサービスに)行った?」「さあ。どうやったやろ」「昨日は行ってへんわなぁ」となります。こうして、今日は本当は水曜日で、サービスは休みであることを発見するまで、ひとしきり問答が続くのです。しかし、15分ほどすると、また父が、「今日はデイサービスの日か?休みやったか?」と問い始め、母の「さあ、今日は何曜日や?」で、先ほど問答が繰り返されます。私は間に入らず放って置きます。二人とも記憶が残らないので、夫婦の会話が続くのです。記憶が良ければ、二人は会話なしで暮らすかしれません。
また、母は、メガネがない、湯たんぽのふたがない・・・と、しょっちゅう何かを探しています。しかし、見つかろうが見つかるまいが、もの探しは間もなく終わります。何かの拍子で、自分が何かを探していること自体を忘れるのです。そのおかげで、一日中もの探しをせずに済みます。忘れることも、忘れることで、救われています。
母の若い担当医が、私に熱く語りました。「人間は、忘れることで生きていかれるんです。全部記憶できて、忘れることができなくなったら、すぐに心が病気になりますよ。失敗、恥、不愉快、悲しみの全部を覚えていたら、トラウマになるでしょ。忘れられるから正常なんです」。
全知全能の神様でさえも、告白した罪は、キリストの十字架のゆえに、全部なかったことにして、忘れてくださいます。私たちが忘れることも、主の賜物です。