(先週、沖縄ひめゆりの塔を見学したときに書き留めたメモです。)
太平洋戦争の末期を迎えた1945年2月14日、元総理大臣近衛文麿は、昭和天皇に「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」で始まる上奏文を書き、早期和平の英断を求めました。しかし、天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と、これを却下してしまいます。これが、敗戦前の悲劇の始まりでした。
翌月の3月9日、東京はB29爆撃機150機による空襲を受け、市街の4割が消失、死者72,000人を出します。続く4月13日、5月25日にも大空襲があり(東京だけで計102回の空襲)、また全国の98都市も空爆を受け、市民の死者は67万人、被災者は1000万人に及びました。
同時に沖縄も戦火に巻き込まれていきます。3月25日には米軍がまず渡嘉敷島に上陸し、島民352人が集団自決しました。続く28日には沖縄本島中西部海岸に上陸、以降、6月20日に日本軍の琉球列島守備隊が降伏するまで、12万人の犠牲者を出す戦闘が続きます。住民の集団自決が各地で起こり、日本軍による住民虐殺もありました。当時の女子高生たちも従軍看護要員として編成され、多くの犠牲者を出しています(ひめゆり部隊は、生徒222人、教師18人中136人が死亡しました。うち14人は集団自決)。
そして8月6日、9日、広島・長崎への原爆投下です。
すでに決着がついたのに、少しでも有利な局面を作っておいてから敗北を認めようという姿勢は、さらに傷を深め、取り返しのつかない新たな悲劇を生み出します。2月14日は「近衛上奏分の日」として記憶にとどめたいと思いました。
ルカ15章の例え話を思い起こしましょう。若者は遠い国で父の財産を食い潰し、無一文になって飢えますが、「我に返る」と、すぐさま、汚れた服と裸足のままで「父」のもとに帰り、再び「息子」として迎えられました。面子のために死んではならないのです。